ただの相談役 気まぐれブログ
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倉敷茶屋町ユーリン・ホーム。
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『「私」という男の生涯』
久し振りに一日で読了した本だった。
【帯】には
弟・裕次郎や家族への愛と感謝、
文学・政治葉の情熱と悔恨、
通り過ぎていった女たちへの
思慕と感傷‥‥‥
その様に書いてあったが
私が興味深く読んだのは
石原氏の『死』への拘りだった。
作中
ジャンケレビッチの文章が
引用されていた。
『老いるということは人間は必ず死ぬ
という運命の兆候であり、死そのものの
前駆性であり、死によって不可避な限界を
つけられた生成が長い年月の間に
死のこちら側で必然にとる変形だ』
先日
京都のY 川女史がメールで
共通の友人のお母さんの死を
知らせて来てくれた。
文末
『私たちがトップに躍り出る年代に
なってきました』と書いてあった。
石原氏が書いていたように
『死』は未だ知らず(未知)
未だ来ない(未来)ものだが
Y 川女史も考えているように
確かに訪れるものでもある。
私の死は私にとって他人事で
色々と煩わしいのは
残った者たちだ。
その煩わしさの中に
私は私の死後
子供たちや孫たちが
彦や彦の子供たちに
こんなお祖父さん
こんな曾祖父さんが
『居たんだよ』と
たまさかでも好い口の端に
『乗せてもらいたい」と
考えている。